今井 宗久。 今井宗久/陣内孝則

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宗呑は宗薫の子。

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そしてその後、鉄砲の時代がくることを予測し、 今井宗久は薬種業を始め、納屋宗次から独立しました。
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武野紹鴎は、源氏の流れを汲む若狭武田氏の出自で、今井宗久と同じで武士の身分として生まれてますし、通じるものがあったのかもしれません。

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ここでは今井宗久についてまとめてみよう。
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信長の死後には羽柴秀吉()にも仕え、堺の、(山岡宗無)とともにを務めた。 しかし、本能寺の変が起き、織田信長がこの世を去ると、今井宗久の黄金期も終わりを迎えました。 この企てるたくらみの眼をご覧くださいませ。

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・堺に出ての居宅に身を寄せ、に茶を学ぶ。 今井家はもう一人の息子・ 兼隆(かねたか)が継ぎ、和泉や河内の代官を務めました。
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そして、 信長と直接対面したときは、名物茶器を信長に献上したと言われています。 他にも一緒に務めた ・千利休 ・津田宗及 は「 天下の三宗匠」と称されましたが、「 本能寺の変」で時代が織田信長から羽柴秀吉に変わると、茶の湯の世界は千利休が牽引するようになり、宗久は主役の座を降りました。 それだけではありません。

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織田信長との関わり 1543年(天文12年) 種子島に鉄砲が伝来すると、1年後には 橘屋又三郎によって鉄砲は堺にまで伝わってきましたが、当時、一挺200貫(現在の100万円相当)と高価な品でした。
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秀吉の時代も、今井宗久は重用されていたと言われます。 しかし、織田信長(染谷将太さん)は、戦にまるで興味のない様子の義昭を不安に思う。 この時今井宗久は、武野紹鷗に気に入られ、娘さんと結婚しています。

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宗久の死後、今井家の跡を継いだのは嫡男の 宗薫でした。
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そこで、宗久は全財産をはたいて、鍛冶職人を集めると、 ・鉄砲の改良 ・性能を向上 させ、さらに製造法を変え、大量生産に成功させました。 秀吉と千利休の蜜月ぷりは有名ですが、信長に重用された今井宗久・津田宗及は逆に遠ざけられたのではないでしょうか。 宗久の代から300年以上を経て父祖代々の土地を離れることになりました。

蜜月だった石山本願寺と堺の関係も終わりを迎えました。 「今、織田さまに逆らったところで勝てる見込みなんて無いんやで!この堺を滅ぼしてもええのんか?織田さまの支配は受けるが自治はそのままで良いとの仰せや。
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個人的には「 愛しあってるかい!」とか「 君の瞳をタイホする!」は好きでしたねぇ〜。 一方、光秀は上洛(じょうらく)にあたり、三好勢の兵力と朝廷側の意向を探るため、京へと向かう。 信長の命を受けて、堺に行くこともあったであろう光秀。

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また、信長が堺の豪商たちに20000貫の戦費を要求した時には、会合衆たちは大反対したんだ。 歌手としての活躍はもちろんのこと、女優としても活躍されていますよね。
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火薬の原料となる硝石や鉄砲玉の原料となる鉛の調達など、総合軍事産業の事業化として巨万の富を築き、信長の天下統一を側面から支えたんだ。

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そんな中世の自治都市「堺」に移り住んだ今井宗久は、商人になる修行をする傍ら、教養を身に着けるため茶の湯を学びます。 (多聞院日記). 茶人、文化人であり武器商人であったという戦国時代をプロデュースした一人として印象的に演じられたらと願っております。